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長谷見雄二名誉教授「杉山英男賞」受賞

2023.07.05up

長谷見雄二名誉教授が6月29日に第36回木質材料・木質構造技術研究基金賞:第一部門(杉山英男賞)を受賞されました。
対象業績は「中規模木造建築の発展に資する防耐火基準への貢献」です。
以下長谷見先生からの説明文です。
※写真について
 杉山英男賞賞状
 2階建て・・・2x4住宅火災実験(1976)
 3階建て・・・木造3階建て共同住宅火災実験(1996。阪神淡路があってやることになった実験です)
 
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「現代木構造学の父」といわれる杉山英男先生の名を冠する賞を頂いた。
授賞理由は「中大規模木造建築の発展に資する防耐火基準への貢献」とのこと。

「防耐火基準」は、要するに、木造を中大規模化させる場合に、どんな防耐火性能を要求すれば良いか、という問題である。
そういう問題に関わるようになったきっかけは、建研に就職した直後、事務局の下働きをした2x4住宅火災実験(1976)。点火後1時間経っても建物は崩壊せず、それまで「木造が火事に弱いのは宿命」と言われていた日本で、木造でも火事を制御できるという期待が生まれる契機となった。

一方、その直後には戦後屈指の大火である酒田大火が起こっていた。全国を見渡すと、密集地区の防災改善は停滞し始めており、その大きな原因はRC主体の不燃化政策が、道路も敷地も狭隘で軟弱地盤も多く土地の権利も複雑な密集地区の実状とミスマッチなことで、建研の都市計画の研究者や国の行政畑の人には、「工事し易く建て替えも容易な木造で地震・火事に強い建物を造れると良いのだが」という声は少なくなかった。

当時の建築基準法では、耐火構造と防火構造以下とでは、建物の規模・用途等のギャップが大きくて、低層大規模施設の整備がうまくいかない反面、戦災復興期にニーズの高かった施設は大規模でも大した防火対策のない木造を容認しており、それが大火の要因になっていたという矛盾を抱えていたのも現実である。

木造で市街地大火が起こり易いのは建物内の可燃物と建物構造が一緒に炎上して巨大な火炎を発生し、火の粉をまき散らすからで、可燃物が燃え尽きるまで建物構造が崩壊しないようにし、建物自体の燃焼も緩慢にできれば、2x4実験のように周囲への延焼危険は、耐火構造と大差ないものになりそうだ。
それには、建物の荷重を支えている「主要構造部」が、可燃物の燃焼が衰えるまで崩れないようにするのが早道だが、1980年頃にそれを言ったら、柱・梁等を防火的に強化という話は当時、市場の大半を占めた在来系の木造業界からは総スカン、都市不燃化が当然と考える消防の人たちからは大規模施設を木造にするとは何を考えているのかと叱られた。
しかし、当時、ほぼ初対面の杉山先生からは激励されて、意外だったのをよく覚えている。
地震・火事に強い木造の開発については、1980年代を通じて都市計画の観点から中大規模木造の必要性を重視する行政畑の人達が色んな制度も活用して息長く取り組み、民間での技術開発も進められるようになった。

準耐火構造の法令導入(1992)は、その帰結だったが、その3年後に起こった阪神淡路大震災では、多数の市街地火災が発生し、ジャーナリズムや政治家の間では市街地での木造廃止論も唱えられていた。
しかし、木造をRCに置き換える不燃化が既に事業化も効果も限界に来ていたのに、一時的な感情にかられてそんなことをしても都市が安全になるわけではない。

そこで震災翌年3月に、1時間準耐火構造で3階建て共同住宅を建てて、市街地火災に曝された時に風下への延焼を止められるか、という実験を行うことになり、かねて準耐火構造でそれができると言っていた私は、その責任者を務めることになってしまった。
実験は、その想定通りの結果になったが、それは、準耐火構造が、木造への視線が厳しい中で実験を繰り返すなどして慎重に制度化された賜物であろう。この経過で私ができたことは、火災性状の研究者として実大実験をしたり、耐火構造と防火構造以下の間の溝を木造で埋めるのに必要な性能を決める理論づくりで、自分で木造の技術開発に関わることはほとんどなかった。
準耐火構造は、木材を日本に売りたいアメリカの外圧の産物といわれることが多いが、この時の法改正は、ほぼ、防火・準防火地域での木造可能範囲の拡大と、指定地域外の木造の規模拡大・共同住宅への利用に留まり、アメリカが最も望んでいた商業施設・ホテル等の特殊建築物への木造利用拡大は見送られている。
これら用途の防火規制の根拠は人命安全で、そこまでの範囲拡大には消防体制・戦術までを含む基本的な見直しが必要になることなどが、見送りの最大の理由であろう。
当時、木造規制反対論者も消防も「木造が火事に弱いのは宿命」と思っていた中、そのどちらもが良い顔をしない準耐火構造を推進するのに「外圧」が梃子にされていたふしもある。
そもそも、1976年の火災実験の背景には、それ以前から「火事・地震に強い木造」に道筋をつけようとしていた都市計画・建築行政の先達や、「木造が火事に弱い」のが宿命とは思っていなかったベテラン研究者がいた可能性が大きく、日本での木造への政策的な取組の淵源は、一般に思われているよりも遙かに早かったはずだ。

現在、大規模木造の振興がちょっと前のめり気味になっており、政策に責任がありながら木造の方がRCより火事に強い等と言い出す人もいる。何か起こった時の説明責任を考えているのか疑わしいが、多数が犠牲となるような火災が繰り返されるようなことがあれば、その熱は直ちに冷めてしまいかねない。
20年余り前、高齢者グループホームが高齢化社会の切り札のようにいわれて制度化されたが、大火災が相次いで失速してしまったことを見れば明らかだ。

木造がそのままで火事や災害に強い、ということはない。
日本で歴史的な木造建築が現代まで残っていることが言挙げされることが多いが、日本史の各時代の代表的な記念的木造建築物の大多数は火災や戦乱で失われて残っていないのが現実であり、残ってきたのは、弱さをよく認識したうえで賢明に危険を避けてきたものだけと考えた方が良いと思う。